代表の岡真樹子の著書「日本の敵を今知るための150問150答」が発売されました!!
 
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代表の岡真樹子の著書「日本の敵を今知るための150問150答」が青林堂から6月9日発売されました!!
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8月15日は終戦の日です。 家族のため、愛する人のため、この国のために命を懸けて戦ってくれた英霊に感謝を捧げに靖国神社、護国神社へ慰霊に行きましょう。 貴方が日本人ならば、そして正義を愛するならばかつての日本人も同じです。 私達日本人が誇れる英霊の方々です。 貴方が自分を信じるならば、かつて日本を護った英霊を信じてください。

チベットは「もともと中国の一部」だったのですか?

 中国政府はチベットのことを語る時、必ず「チベットは古来、中国の一部だった」と主張しますが、チベット側はそれはまったく根拠のない、中国の侵略を正当化するプロパガンダに過ぎないと主張しています。

史実を見るとチベットが初めて中国と接点を持つのは、モンゴル人が中国全土を支配した元(げん)の時代です。
元の初代皇帝フビライはチベット僧のパクパを重用し、都である大都にはチベット仏教の寺が立ち並んでいました。
元は漢民族の明(みん)に倒されますが、明は軍事的に弱体であったのでチベットに介入する力はありませんでした。
17世紀、満州人が明を倒して清(しん)王朝を建てます。
満州人は建国以前からモンゴル文化の影響を受けてチベット仏教を尊重していました。
特に清の乾隆帝は自らをフビライの生まれ変わりと信じ、北京や熱河に多くのチベット寺を建て、チベット語の経典をモンゴル語や満州語に翻訳するなどの大規模な文化事業を行いました。
乾隆帝の手厚い保護の下でチベット仏教圏は拡大し、20世紀初頭には中央ユーラシアのモンゴル系諸民族に浸透しました。

しかし中央ユーラシアに社会主義革命の嵐が吹き荒れると、宗教を否定する共産主義者によってチベット仏教は弾圧されるようになりました。
今の中国(中華人民共和国)は漢民族政権であり、民族的にも文化的にもチベットとはまったく共通点がありません。
チベット語の源はサンスクリット語で、語順は日本語と同じです。
中国語とはまったく違いますし、文字も漢字ではありません。
食生活も風俗・習慣も中国とは別物です。
しかも今の中国は歴代の皇帝が尊重してきたチベット仏教を否定し、チベット人を武力で抑えつけています。
これらのことから中国がチベットを統治する正統性はまったくないと言えるでしょう。

中国はいつ、どのようにチベットを侵略したのですか? 

 1933年にダライ・ラマ13世が遷化(死去)すると、チベットには政治的空白が生まれました。
ダライ・ラマは世襲ではなく前のダライ・ラマの転生者(生まれ変わり)がなるからです。
次のダライ・ラマが決まるまでの間は摂政が政治を行いますが、その政治的空白に中国はつけ込んできました。
1934年、中国国民党の弔問団はチベットの首都、ラサにやって来ました。
彼らは摂政と謁見し、チベットの貴族、役人、聖職者に豪華な贈り物を渡しました。
交渉の結果、ラサに二人の中国人役人が常駐することになりました。

1949年、中国国民党は中国共産党に敗れ、蒋介石は台湾に逃れました。
チベット政府はラサにいる中国代表に国外退去を命じました。
しかし共産党主席となった毛沢東はただちに「チベットと台湾を解放する」ことをラジオ放送で表明しました。

1950年10月、中国人民解放軍4万人が国境の町チャムドに侵攻し、チャムドは陥落しました。
この非常時を切り抜けるべく、まだ15歳だったダライ・ラマ14世は11月17日、君主に即位しました。

チベット高原は南はヒマラヤ山脈、北は崑崙(こんろん)山脈に囲まれた、平均高度3800メートルの「世界の屋根」です。
険しい山脈が天然の要塞の役割を果たしていたので、外敵の侵入を受けることが歴史的にほとんどありませんでした。
そのため国防という概念に疎く、近代的軍隊を持っていませんでした。チベットでは優秀な男の子は僧侶になることが多く、国全体が寺院のようなものです。
中国の領土的野心を知っていた役人や貴族もいましたが、結局は賄賂に目がくらみ、中国の侵略を許すことになってしまいました。

「17条協定」とは何ですか?

「17条協定」は正式には「中央人民政府とチベット地方政府のチベット平和解放に関する協定」といいます。
中国政府とチベット政府の間で取り交わされた合意書という形を取ってはいますが、実際は北京に送られた4名のチベット代表団が本国の政府と連絡も取れない中で署名を強要されたものです。

この合意書にはダライ・ラマの地位、機能、法王権の保全など、チベット人を納得させる数々の約束事が明記されていました。
しかしその後、チベットで起きたのはそれとはまったく正反対のことでした。
中国共産党の統治下でチベットの人口の6分の1に相当する120万人以上のチベット人が殺され、チベットの全宗教施設の90%以上に相当する6千以上の寺院や僧院が跡形もなく破壊されました。
僧侶や尼僧は投獄され、残忍な拷問を受け、処刑されました。
ダライ・ラマ14世は1959年、インドに亡命して「17条協定」の破棄を宣言しました。

1965年以降、チベットでも人民公社化が進められた結果経済が破綻し、農民や牧民を中心に大量の餓死者が出ました。
チベット人を苦しめたのは経済の失政や思想統制だけではありませんでした。
ダライ・ラマ14世の亡命後、中国とインドは関係が悪化し、1962年、毛沢東は大躍進政策の失敗から国民の目をそらすためにインド侵攻を命じました。
こうして始まった中・印国境紛争の中でチベット人は軍事関連施設の建設や物資の運搬などに駆り出され、徴兵もされました。
現在でもチベットには対インド防衛の名目で人民解放軍が駐留しており、チベット高原には最低でも34か所の核ミサイル基地があるといわれています。


中国はなぜチベットを侵略したのですか?

1949年、中国を統一した毛沢東は、それまで欧米列強の植民地にされていたことを教訓に領土拡張主義に走りました。
領土を広げ、人口を増やすことが毛沢東の目的でした。
人口の多さがいつかは中国の武器になることを彼は知っていました。
そして今、チベットを占領したことによって中国は広大な領土を手に入れました。
チベット人の居住地域は中国国土の4分の1近くを占めています。
チベットには世界最高峰のエベレストがあり、希少動物の代表ともいえるパンダがいます。
資源も豊富にあるといわれています。
チベットに核関連施設も作った今、中国はチベット領有に執拗にこだわり続けることでしょう。

「チベット自治区」となってチベットは経済発展したのではありませんか?

「中国が経済発展すればチベットも発展するのだから、それで良いではないか」という意見を言う人がいます。
しかし、それではなぜ今もヒマラヤを越えて、危険を冒してチベットを脱出する人が絶えないのでしょうか? 

確かに表面的にはチベットは豊かになりました。
青蔵鉄道が完成し、観光客がチベットを訪れやすくもなりました。
タルチョー(祈りの旗)を掲げたり、巡礼したりすることは自由になりましたし、破壊された寺の復興も進んでいます。
しかしチベット仏教の本質は僧院における僧侶たちのディベートや哲学研究、ヨーガの修行などにあります。
そのような本質的な宗教活動に対する締め付けは相変わらず厳しいのです。伝統的に行われていた幼児期の出家は許されず、僧院ごとに定員制があり、僧侶には社会主義思想の学習が義務づけられています。
そのような中国政府の姿勢からチベット人が感じ取っていることは、当局がチベット人に表面的な宗教活動を許しているのはエキゾティシズムを求めてチベットを訪れる観光客の目を楽しませるためであり、僧院の再建を許しているのは観光資源に対する投資であり、いずれもチベット人やチベット文化を見世物にして金儲けをするための便法だということです。

中国の支配下でおびただしい数のチベット人が殺されました。
チベット人が激減したところへ漢民族が汽車に乗って大量に入って来ました。
その結果、チベット人は先祖代々の土地に住みながら少数民族の地位に転落してしまったのです。
「チベット自治区」とは名ばかりで、その実態は漢人が自治区の要職を占め、チベットの政治や経済を動かしているのです。

チベット高原の環境破壊も深刻です。
チベット高原はアジアの大河の水源地であり、希少な動植物の宝庫です。
しかし50年間の共産党の支配下で森林は乱伐され、牧民を定住化させた結果、草地は回復の時間を与えられず劣化しました。
森林と草地の劣化は希少な動植物を死滅させ、河川へ大量の泥を流入させました。
80年代に黄河の下流域で頻繁に起きた洪水は、チベット高原における森林の乱伐が原因ではないかといわれています。


チベット仏教とはどのような宗教ですか?

 チベット仏教は4つの宗派(ニンマ派、サキャ派、カギュ派、ゲルク派)から成っています。
ダライ・ラマ14世はゲルク派の主宰者です。
チベット人にとって観音菩薩は特別な意味を持っています。
チベットを初めて統一し、古代王朝を開いたソンツエンガンポ王やダライ・ラマ14世は観音菩薩の化身と信じられています。
チベットの歴史は観音菩薩の祝福を受けていると信じられ、チベット人は朝に夕に観音の6字真言「オン・マニ・ペメ・フン」を唱え、その慈悲に感謝します。

チベット仏教は非常に論理的なものです。
宗教というよりも哲学に近いかも知れません。
僧侶たちの修行の中心は教義に関する問答、つまりディベートです。
仏典のテキストに書かれていることをただ暗記するのではなく、その意味を正しく理解したかどうかを互いに問答しながら確かめていくのです。

チベット仏教では平均12、3歳で出家して僧院での集団生活に入ります。
僧侶として一人前になるには20年位かかります。
僧侶は結婚しません。
僧院での修行を終えた後の人生は基本的に各々の自由です。
弟子を養成したり、地元の寺院に帰って仏典を教授する者もいれば人里離れた山奥の洞窟にこもって修行を続ける者もいます。
彼らの究極の目的は輪廻(りんね)から解脱することです。
そのために日夜、全身全霊をかけて修業に励みます。

チベット亡命政府とはどのような組織ですか?

 1959年、約8万人のチベット人と共にダライ・ラマ14世はインドに亡命しました。
そのダライ・ラマ法王の住居や亡命政府の官公庁があり、チベット難民や支援者が住んでいるのがインドのダラムサラという町です。
この亡命政府は中国によって強制的に解散させられたチベット政府の延長線上にあり「亡命チベット代表者議会」「内閣」「亡命チベット最高司法委員会」に分かれています。

亡命政府の仕事はさまざまですが、重要な仕事として破壊された僧院の再建や世界各地に散らばって住む13万人以上のチベット難民の生活を守ること、子供たちの教育などがあります。
祖国を失い流浪の民となった今、チベット人はかつてないほど「自分がチベット人であること」「チベット文化を守ること」にこだわっています。
滅びゆくチベット文化やチベット仏教を何とかして守ろうとしています。

亡命政府の活動を支えているのは世界中のチベットサポーターたちですが、なかでもアメリカ、イギリス、台湾の支援者はとても熱心です。
チベット仏教徒ととしても有名な俳優のリチャード・ギアが運営する「ギア・ファンデーション」はギアの師匠の出身僧院の運営資金を出し、他のチベット支援組織への資金提供もしています。
チベット仏教は昔から裕福な先進国のスポンサーに支えられてきましたが、今は欧米の俳優やミュージシャン、アーティストなどがその役割を果たしています。

中国が「分裂主義者」と非難するダライ・ラマ14世はどのような人ですか?

 ダライ・ラマ14世はダライ・ラマ13世の転生者として1940年、わずか4歳でダライ・ラマになりました。
15歳で祖国を失い、亡命生活は50年を超えました。
1989年にノーベル平和賞を受賞し、70歳を越えた今も世界中を精力的に飛び回り「慈悲の心」を説き続けています。
中国政府は一難民となったダライ・ラマ法王を未だに罵倒し、侮辱の言葉を投げつけていますが、法王はチベット人に対して、中国政府を恨んではいけない、武力闘争などもってのほかであると、あくまでも「非暴力」を説き続けています。
1987年にはとうとうチベットの「独立」要求を「高度な自治」にまで後退させ、絶望したラサ市民が独立要求デモを起こし、多数の死傷者が出たほどです。

なぜ法王は一部のチベット人の反感を買ってまで中国政府に対して譲歩し続けるのでしょうか?
法王の心の内は分かりませんが、法王がいつも言っている「私は活仏(いきぼとけ)でも一国の指導者でもなく、一介の修行僧に過ぎない」という言葉からその真意を推し測るしかありません。

「非暴力思想ではチベット問題は解決できない」という意見もあります。
中国に抑圧され、法王の写真を持つことすら許されないチベット人が武装蜂起したくなる気持ちも分かります。
しかし法王の非暴力思想が世界の人々にチベット仏教の価値を知らせ、チベット支援者を増やしていることもまた事実です。

法王が座右の書としている『覚りへの道』には「忍耐」について「忍耐という美徳は自分を愛してくれる人たちに取り巻かれていては身につかない。
敵の迫害を受けつつ、それをものともしない心を陶冶して初めて身につけることができる。
だから修行を積ませてくれる敵に感謝しなければならない」と説いています。
その教えを受け入れた法王は、皮肉ではなく、心から中国に感謝を捧げているのです。


国際社会はチベット問題に対してどのような態度を取っているのですか?

 国際社会はチベット問題に対して冷淡だったと言わざるをえません。
1950年、首都ラサに向けて人民解放軍が進軍を始めた時、チベット政府は国際連合に助けを求めました。
しかし国連総会での討論は「チベットは中国国内管轄権の下にあるから」という理由で無期限に延期されてしまいました。
インドは「忠告する」立場に終始しました。
中華民国(台湾)だけがチベットのために立ち上がろうとしましたが、1949年に中国共産党に負けた直後で、その力はありませんでした。

国連はチベット側から提出された請願書に基づいて1960年、61年、65年に中国に対して「国連憲章および世界人権宣言に従うよう求める」決議をしています。
しかし、その後もチベットの状況は何ら改善されていません。

参考文献:石濱裕美子『チベットを知るための50章』(明石書店)
     チベット亡命政府 情報・国際関係省『中国歴史偽造帝国―チベットから60の反証―』(祥伝社)
     ジル・ヴァン・グラスドルフ『ダライ・ラマーその知られざる真実―』(河出書房新社)
     マイケル・ダナム『中国はいかにチベットを侵略したか』(講談社インターナショナル)




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