竹島とはどんな島ですか?
竹島は隠岐島(おきのしま)の北西85海里(カイリ)、北緯37度14分、東経131度52分に位置しています。
島とは名ばかりで面積は日比谷公園の70%ぐらい、水も出ない岩礁です。
もちろん人は住めません。韓国では竹島のことを「独島(トクト)」と呼んでいます。
竹島問題とは何ですか?
竹島の領有権をめぐる日本と韓国の争いです。
本来、領有権に関しては国際司法裁判所が決定すれば解決するのですが、韓国は国際司法裁判所に付託することを拒否しています。
そして1954年、無人島である竹島に突然警官を送り込み、日本の抗議も無視して不法占拠してしまいました。今ではさらに監視所を置き、無線用アンテナ、灯台も建て、警備隊を常駐させて不法占拠を続けています。
韓国では竹島問題をどのように子供に教えているのですか?
竹島問題を教科書にも載せず、まるでそんな問題は存在しないかのように問題を隠そうとする日本政府とは対照的に、韓国政府はこの問題に非常に熱心です。
韓国の教科書は国定教科書なので1種類しかありませんが、その教科書で「独島は韓国領」と教えています。
1980年代初め、韓国で「独島はわが領土」という歌が流行りました。今でも韓国のカラオケに行けば歌えます。
この歌の歌詞は「慶尚北道鬱陵郡南面道洞1番地 東経132 北緯37 平均気温12度 降水量1300」とか「智証王13年 島国于山国 世宗実録地理志50頁 3行目」という、およそ歌詞とは思えないものです。
しかしこれを口ずさんでいると竹島の位置や気象条件、韓国領であることを示す根拠になっている文献まで自然に覚えることができます。
韓国人の竹島に関する知識はこの歌によるところが大きいと言われています。
韓国の新聞社が1996年にソウル市民にアンケート調査をしたところ、回答者の98.6%が竹島は「韓国領だ」と答えたそうです。
最近では日本に留学してくる韓国人学生もゼミのテーマで竹島問題を取り上げ、「韓国領だ」と自信を持って主張します。
それに対して日本人学生はそんな問題があることすらほとんど知りません。
知識がないから反論できず、韓国人学生に論破されてしまいます。
歴史的に竹島が日本領土であることは間違いありません。
日本政府はまず教科書に竹島のことをきちんと載せ、国民に正確な知識を教えるべきです。
韓国人はなぜ竹島にこだわるのですか?
竹島は単なる岩礁ですが、そこが韓国領になるかならないかによってさまざまな影響が出ます。
例えば漁場の広さも違ってきますし、海底資源の所有権にも関わってきます。
竹島の下には豊かな海底資源があるという説もあります。
また韓国のような小国にとって領土は多ければ多いほど良いでしょう。
これは何も韓国だけに限ったことではありません。世界中、どこの国でも機会さえあれば自国の領土を少しでも広げたいと望んでいるのです。
それに対して日本人はあまりにも領土問題に無関心です。領土は一度奪われたらほとんど返ってくる可能性はありません。
奪われる前に守らなければなりません。
竹島問題をきっかけに私たち日本人が領土というものについて真剣に考え、領土は絶対に守るべきだという普通の国家意識を取り戻さなければなりません。
竹島問題はいつ始まったのですか?
日本と朝鮮は、もともと竹島よりはるかに韓国側にある鬱陵島の領有権をめぐって争っていました。
朝鮮王朝は1403年から鬱陵島を無人にしていたので、鬱陵島より遠くにある竹島に朝鮮人が渡ることはできませんでしたが、日本人は竹島を経由して鬱陵島へ渡り、漁や木材の伐採をしていました。
1618年、鳥取藩米子(よなご)の大谷甚吉、村川市兵衛が江戸幕府の許可を得て鬱陵島を拝領し、1661年までには竹島も拝領しました。1693年、安龍福という朝鮮人が鬱陵島にやって来て、日本人の漁を邪魔して捕えられました。幕府は安龍福を朝鮮政府に引き渡しますが、彼は3年後にまた鳥取に現れます。朝鮮政府は安龍福を処罰し、日本に謝罪しました。しかしこの一件で幕府は朝鮮との関係を考慮して1696年、鬱陵島への日本人の渡航を禁止しました。
明治になって1881年、日朝両国政府は外国交渉によって鬱陵島が朝鮮領であることを確認しました。
1904年、漁民、中井善三郎から「乱獲によって海驢(アシカ)の数が減っているので保護してほしい」との申請があり、1905年1月28日、閣議に基づき島を島根県に編入しました。
この時、島を「竹島」と命名しました。
韓国の教科書には「日本は日露戦争中、強制的に竹島を日本の領土にした」と書いてありますが、当時、大韓帝国はまだ独立国です。第2次日韓協約(日韓保護条約)によって日本が大韓帝国の外交権を持つようになったのは1905年11月17日ですから、もし日本の閣議決定に異議があれば何らかの抗議はできたはずです。
韓国が「独島は韓国領」と主張する根拠は何ですか?
古い文献です。1770年に朝鮮で編纂された『東国文献備考』に「鬱陵・于山は皆、于山国の地で、于山は即ち日本でいう松島である」と書いてあります。
日本の文献の中に今の鬱陵島を「竹島」、今の竹島を「松島」と書いているものがあったことも混乱を招きました。韓国は松島=現在の竹島と解釈し、それ以前の文献で「于山」と書かれているのはすべて竹島のことだと自分たちに都合よく解釈しました。
そして12世紀に編纂された『三国史記』「新羅本紀」に「于山国が(新羅に)服属してきた」と書かれていることを根拠に「独島は新羅時代から韓国領だった」と主張しているのです。
ところが『三国史記』には「于山国の別名は鬱陵島」と書かれており、史料をきちんと読めば于山=竹島にはならないことは明らかです。
「李承晩ライン」とは何ですか?
1951年9月、GHQ(連合国軍最高司令部)に占領されていた日本はサンフランシスコ講和条約を結ぶことによって主権を回復し、国際社会に復帰しました。
この時、敗戦後の日本の領土が確定したのですが、その記述方法は「大日本帝国領-切り離す領域=新日本領」というものでした。
この「切り離す領域」の中に竹島は入っていません。
ですから竹島は当然、日本の領土として認められていたわけです。ところが1952年1月18日、韓国の初代大統領、李承晩は「大韓民国の隣接海洋での主権に関する大統領の宣言」を発表します。
北緯38度、東経132度50分までを韓国の「排他的主権領域」だと一方的に宣言したのです。1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効されることが分かっていたからでした。これを「李承晩ライン」と呼びます。
竹島はこのラインの韓国側に入れられてしまいました。
国際社会が決めた領有線を無視して海の上に勝手に線を引いた韓国に対して日本、アメリカ、イギリス、台湾などから抗議が殺到しましたが韓国政府は無視しました。そしてラインを越えてきた日本の漁船を拿捕しはじめました。
1953年2月4日、日本の漁船、第一大邦丸が韓国警備艇に拿捕される際に漁労長が射殺されるという「大邦丸事件」が発生しました。
1954年、韓国が竹島に標柱を設置すると日本側がそれを破壊したり、韓国の独島守備隊が日本の海上保安庁の巡視船を銃撃するなど、両国の対立は次第に激しさを増してゆきました。
なぜ竹島問題は未解決のままなのですか?
1945年の終戦後、日本と韓国の間には国交がありませんでしたが、1965年12月17日に締結された日韓基本条約で国交回復しました。
この時、日本は韓国に無償で3億ドル、長期低利の借款を2億ドル供与しています。
ちなみに当時の韓国の外貨保有高は1億3千万ドルですから、韓国の外貨保有高よりも多くの金額を日本は払ったのです。
当時、韓国は1953年に終わった朝鮮戦争で国土は荒廃していました。
朴正熙大統領は国家再建の資金を日本から引き出すために日本との国交回復に賭けていました。
しかし国交正常化の障害となったのが竹島問題でした。
日本も韓国もお互いに領有権を主張して譲らなかったからです。
何度も交渉を重ねた結果、日韓両政府は結局、竹島問題は「解決せざるをもって解決したとみなす」つまり棚上げすることにしました。
このことは密約だったので条約には記されませんでした(ロー・ダニエル『竹島密約』)。
韓国は1954年に竹島に警官をおきました。
密約ではその状態のままを維持し、それ以上の警備員の増強や施設の増設はしない、この合意は韓国の大統領が代わってもそのまま引き継ぐ、ことが取り決められました。
しかし1993年、金泳三が大統領に就任しました。
彼は「歴史の清算」の名のもとに、それ以前の軍事政権の政策を180度転換させました。
朴正熙を初めとする軍人出身の大統領は日本の満州軍官学校や陸軍士官学校の出身者なので比較的親日的です。
しかし文民である金泳三大統領はおそらく密約の存在を知らなかったのでしょう。
金泳三大統領は「わが領土独島」に新しい接岸施設を作ったり、海軍に機動訓練をさせたりするようになりました。
その後、韓国の大統領は何度も代わっていますが、強硬な姿勢は変わらないままです。
参考文献:名越二荒之助『日韓2000年の真実―写真400枚が語る両国民へのメッセージー』(ジュピター出版)
ロー・ダニエル『竹島密約』(草思社)