「OSS」とは何ですか?

 大東亜戦争に負けたあと、日本は7年間GHQ(連合国軍最高司令部)の占領下に置かれました。しかし、戦争開始時のアメリカ大統領、ルーズベルトは1942年に早くも将来の日本占領に備えた諜報・謀略機関を作っていました。それがOSS(米国戦略情報局 Office of Strategic Service)です。OSSの方針はGHQに影響を与え、戦後はCIAに引き継がれました。

アメリカは政治的には自由主義で民主主義、経済的には資本主義の国、というイメージを私たちは持っていますが、それは時の政権が民主党か共和党かによります。民主党の左派が政権を握った時、日本は危険な状態に陥ることが多いです。大東亜戦争の開戦時がまさにそうでした。

ルーズベルト大統領はユダヤ系で人種差別主義者でした。「日本人の侵略行動は、おそらく頭蓋骨が白人に比べて未発達だからだ」とイギリス公使に語ったという記録が残っています。彼は戦争が始まるとすぐにアメリカに住んでいた12万人の日系人を砂漠の中の強制収容所に閉じ込めました。そして、ルーズベルトが実は共産主義者だったという説も最近、出版された本で明らかにされました(田中英道『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』展転社)。

OSSには日本だけでなくドイツ、イタリアに対する工作のために、惜しみない予算と人材が注ぎこまれました。終戦時の工作員は3万人いた、と言われています。諜報専門家だけでなく心理学、医学、地理、語学、科学など、あらゆる分野の学者が集められました。その中に、ナチスの迫害をのがれてアメリカに来て、ニューヨークのコロンビア大学に集まったフランクフルト大学のユダヤ人の社会学者たち(フランクフルト学派)がいました。

フランクフルト学派の人々はソ連型のマルクス主義ではなく、新しいタイプのマルクス主義者でした。ソ連型のマルクス主義は労働者が搾取されて階級意識が生まれ、階級闘争が始まる、という単純な図式でした。しかし、これは貧しい後進国にしか通用しません。そこで彼らは労働運動ではなく文化活動や人間心理全般を通じて階級意識、差別意識を作りだす運動を起こさなければならない、と考えました(構造改革路線)。これが戦後日本のさまざまな制度改革に影響を与えることになりました。

日本国憲法は誰が作ったのですか?

 5月3日は憲法が制定されたことを祝う憲法記念日です。日本国憲法は新しい時代にふさわしい、国民主権の憲法だと学校の授業では教えていますが、実は憲法の原文が英語だったことは教えていません。GHQによって押しつけられた、占領憲法だということを隠すためです。

1945年10月、マッカーサーは近衛文麿に日本の新憲法の作成を命じました。しかし近衛文麿は戦犯として逮捕される直前に自殺します。その後、さまざまな憲法草案が出されましたがマッカーサーは満足せず、GHQの民政局長に憲法草案の作成を命じました。

1946年2月4日、GHQの17人のメンバーが8つの小委員会を作って憲法作成に着手しました。しかし、このメンバーの中に憲法の専門家はいませんでした。責任者だったチャールス・ケーディスはユダヤ系で、ハーバード大学で法学を学んだ弁護士でした。しかしOSSが戦争中からいち早く明治憲法の分析を行っていたので、新憲法はわずか9日間で作り上げることができました。
GHQの中にも左派と右派の対立がありましたが、日本国憲法作成に中心的な役割を演じたのは左派でした。マッカーサーは左右の対立にうとく、占領初期には左派を自由に行動させていました。共産主義に対してマッカーサーが警戒心を持ったのは戦後2年ぐらい経って、米ソ冷戦の風が日本に吹き付けてきてからでした。

このような経緯で作成された憲法に正統性がないことは言うまでもないでしょう。占領国が相手国の憲法を作るのは国際法違反です。それに憲法というものは本来、その民族のアイデンティティーを示すもののはずですが、日本国憲法はむしろ日本人のアイデンティティーを壊す要素があるからです。

日本国憲法は民主的な憲法ではないのですか?

 日本国憲法は戦後日本の民主主義の柱となったと言われてきました。しかし憲法には「民主主義」という言葉はなぜか一回も使われていません。憲法に何度も繰り返し出てくる言葉は「権利」です。これこそがこの憲法の正体を表しているのではないでしょうか。

例えば憲法第11条の「基本的人権の尊重」ですが、人権という概念はもともと日本にはなかったものです。しかし、だからといって戦前の日本人が抑圧されていたわけではありません。天皇を中心に一つの家族のような国家を理想としてきた日本では互いを尊重することは当たり前のことで、わざわざ人権などという言葉を使う必要がなかっただけです。第18条の「何人も、いかなる奴隷的拘束は受けない」も日本の歴史を知らない人間が作ったことが分かる条項です。日本は歴史上、奴隷を持たない国でした。古代には奴婢(ぬひ)がいましたが、奴婢にも土地が分け与えられていたのです。

第20条の「いかなる宗教団体も国から特権を受け、又は政治上の権利を行使してはならない」は「宗教は阿片である」という共産主義の考え方の反映ではないでしょうか。

第24条の「家庭生活における個人の尊厳と両性の平等」は、男女共同参画法案などに結びついた条項です。しかし、これが却って男女の対立を煽り、離婚増加の原因を作ったのではないか、と思います。

第25条の「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」は非常に問題です。本来、まず「労働の義務」を述べてからその対価としての「権利」に触れるべきなのに、義務には触れずに権利だけが述べられているからです。世界一真面目で勤勉だった日本人が、今や生活保護を当てにするほど堕落したのはこの条項が関係しているのではないでしょうか?

第26条の「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」は、労働者や農民は学校に通えないような国をイメージして作られた条文でしょう。日本では明治以来、教育の機会均等が奪われたことはありませんでした。

このように、今の憲法には日本にはなかった西洋起源の、抽象的な概念を表す言葉が多く使われていますし、日本の歴史を踏まえて作られていません。このような憲法は一刻も早く破棄し、日本の文化、伝統に沿った憲法を制定すべきです。

憲法はなぜ天皇を「象徴」と謳っているのですか?

 天皇の戦争責任は問わず、天皇は「象徴」という位置づけで温存する、というGHQの方針はこれまでマッカーサーの判断だと思われてきました。このことで戦後の日本人はマッカーサーに感謝してきました。しかし、これはOSSの情報工作の一つだったことが最近、明らかになりました。

OSSは中国共産党を支援していました。中国と同様、日本も共産化しようという意図はあったはずです。しかし1942年の段階で皇室を温存する方針はほぼ固まっていたようです。日本人の大多数が天皇を敬慕していたからです。そこで天皇と国民は平和を願っていたのに軍部に騙された被害者だ、悪いのは軍部だ、という宣伝をすることによって国民と軍部を切り離し、日本人を互いに争わせ、社会を混乱させるという戦略に切り替えたのです。

違う階級の間には利害の対立があり、それを煽れば混乱が起こり、やがては革命が起こる、というのが共産主義の「階級史観」です。しかし、実際には戦後の日本人は協力し合って復興を遂げました。日本に革命が起きなかったのは日本の歴史と伝統の厚みであり、皇室のご存在によるものと言えるでしょう。

しかしもし1942年の段階で皇室を温存する方針が決まっていたというのが事実なら、アメリカはなぜそれを日本に伝えなかったのでしょうか? もし伝えていたら日本はもっと早く降伏して、広島・長崎への原爆投下は必要なかったでしょう。原爆投下は日本を降伏させ、戦争を早く終結させるためのやむを得ない措置だったというアメリカの主張が嘘だったということがこのことからも分かります。

「第三国人」とは何ですか?

 東京都の石原知事が韓国人を「第三国人」と呼んだということで差別主義者という批判を受けました。しかし「第三国人」は決して差別語ではありません。戦前の朝鮮や台湾は日本の一部でした。ですから日本が戦争に負けたことによって独立したとはいえ、韓国や北朝鮮や台湾は戦勝国ではありません。戦勝国でもなく敗戦国でもないから「第三国人」なのです。

戦時中、独立運動をした朝鮮人や共産主義者は投獄されていましたが、GHQは彼らを釈放してしまいました。そして日本の法律に服す必要はない、と彼らに告げたのです。彼らは早速、駅前の土地を不法占拠し、そこに市場を開きました。いわゆる「朝鮮進駐軍」です。地主は彼らの乱暴狼藉を防ぐ手段もなく、泣き寝入りするしかありませんでした。殺人、強盗、強姦など、やりたい放題だった「朝鮮進駐軍」に敢然と立ち向かったのは戦地から帰ってきた若者たちと日本のヤクザでした。

血で血を洗う抗争の末、徐々に縄張りが決まってゆきました。1946年11月、「朝鮮進駐軍」の危険性をようやく認識したGHQは警察の取り締まりを許可しました。しかし、時すでに遅く、駅前の一等地がかなり「朝鮮進駐軍」に奪われてしまいました。今、駅前にパチンコ屋があるのはそういう経緯からです。

憲法第9条の目的は何だったのですか?

 民主党の仙石由人が自衛隊を「暴力装置」と言ったことはまだ記憶に新しい出来事です。仙石由人は元社会党の党員で、「暴力装置」はマルクス主義の用語です。国家を転覆させることが目的の共産主義革命の最大の障害となるのが軍隊であり、警察だからです。

護憲派は、憲法9条があるから日本は戦争に巻き込まれないのだ、と主張しますが第9条「戦争放棄」には、別の側面があると見るべきではないでしょうか? 第9条には他国に対する戦争を放棄する、という意味だけでなく、暴力革命を弾圧する軍隊は放棄すべき、という意味が密かに込められていたと思われます。

東日本大震災で被災地に長く留まり、被災者の支援に献身的な努力をした自衛隊の活躍をマスコミはほとんど報道しませんでした。このようなマスコミの報道姿勢は、自衛隊を敵視していると考えない限り、理解できるものではありません。では自衛隊を敵視する勢力とは一体誰なのか、私たちは考えなければならないと思います。

「ピューリッツアー賞」とはどのような賞ですか?

 日本でも話題になる「ピューリッツアー賞」は新聞などのジャーナリズム、文学、音楽に与えられるアメリカでもっとも権威のある賞です。毎年21の分野を対象に選考され、そのうち20の分野の受賞者に1万ドルの賞金と賞状が贈られます。

この賞の運営をしているのはルーズベルト大統領の母校でもあるコロンビア大学のジャーナリズム学科です。この賞ができたのはロシア革命が起きた1917年で、ハンガリー系アメリカ人ジャーナリスト、ジョセフ・ピューリッツアーの遺志によって創設されました。選考委員はコロンビア大学学長を理事長とする19名で、うち4名はコロンビア大学関係者です。これほど有名な賞が特定の大学の特定の学科の関係者によって選ばれているということは驚くべきことです。コロンビア大学というのは一体どういう大学なのでしょうか?

コロンビア大学はもともとフランクフルト学派の牙城だった大学です。労働運動や経済闘争で革命を起こすことに限界を感じたフランクフルト学派の人たちは文化人やインテリ、メディアを対象に工作をする戦略に切り替えました。これまで「ピューリッツアー賞」を受賞した作品を見てみると、ある傾向がはっきりしています。例えばW・ダワ―の『敗北を抱きしめて』やH・P・ピックスの『昭和天皇』などは日本でもよく読まれましたが、いずれもマルクス主義史観で書かれています。

自由の国、反共の国、アメリカの知識人が未だに共産主義に対する幻想の中にいることは私たちにはなかなか理解できないことです。しかしこれはコロンビア大学に限らず、アメリカの大学の人文学部に多く見られる傾向です。アメリカに留学した日本の外交官や学者の卵が共産主義に洗脳されて帰ってくるのも決して珍しいことではありません。

農地改革や財閥解体、公職追放などの目的は何だったのですか?

 戦後、行われた農地改革や財閥解体、公職追放などのGHQの政策は封建的で遅れた日本の制度を近代化するためだとか、民主化するためだとか言われてきました。また日本の国力を弱めるという側面もあったでしょう。しかしGHQの後ろにOSSがいたことを考えると、これは日本の共産化への道を開くという側面もあったのではないでしょうか?

1946年1月26日、中国から戻った共産主義者、野坂参三の帰国歓迎大会が日比谷公園で3万人を集めて開かれました。この大会のために作られた「英雄還る」という歌が熱唱されたそうです。戦時中は非合法組織だった日本共産党も合法化されていました。1947年2月1日にゼネストを行うことを日本共産党は予定していました。この時、日本は革命前夜といえる、非常に危機的な状況だったかも知れません。しかしルーズベルトの死後、後任の大統領、トルーマンによってOSSは解散させられ、ゼネストはGHQの指令によって中止させられました。

やがて米ソの冷戦が始まり、アメリカは反共に政策を変えましたが、時すでに遅く、日本の戦後の方向は決められていました。教育界では約20万人が公職追放され、大学に左翼教師が入ってきました。その後、GHQのレッドパージで6千人が追われましたが、残った19万人以上の人たちが社会の中枢部に入ったことで戦後の教育はおかしくなってしまいました。ソ連が崩壊したにもかかわらず、共産主義の幻は日本社会を蝕んでいます。

参考文献:杉本幹夫『大東亜戦争はルーズベルトの錯覚から始まった』(展転社)
     田中英道『戦後日本を狂わせたOSS「日本計画」』(展転社)



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