「支那」は差別語なのですか?
違います。「支那」は中国最初の統一王朝、秦(しん)が語源ですから、差別語でも何でもありません。アメリカ人が「CHINA」と呼んでも中国人は怒らないのに日本人が「支那」と呼ぶと怒るのは、中国人が日本人を見下しているからです。
戦前の日本ではラーメンのことを「支那そば」と呼び、中国人を「支那人」と呼んでいました。ところが日本が戦争に負けると、蒋介石は日本人に「支那」という言葉を使うことを禁止し、「中国」と呼ぶことを強要しました。「中国」という言葉は「世界の中心」という意味であり、中華思想を象徴する呼び方です。つまり「中国」は尊称であり、本当は「支那」が正しいのです。中華人民共和国の略称は「中共」で十分でしょう。
「華僑」とは何ですか?
中国系移民のことです。最近、東南アジアでも教科書の内容が反日的になってきている国がありますが、それはその国の華僑の人口が増えているからです。北京オリンピックの時、聖火リレーが通る国では、華僑が沿道を埋め、中国の国旗を振って熱狂的に聖火を迎えました。
かつて白人国家は東南アジアの国々を植民地にすると、現地人の反感を招かないようにその国に住む華僑を使って統治しました。華僑には自分たちが黄色人種だという発想がありません。彼らには中華思想しかないので白人対黄色人とか、人種差別という発想がそもそもないのです。華僑は移住した国に溶け込もうとはしません。マレーシアでは人口の4分の1が華僑ですが、彼らはマレーシア人を見下して、自分たちだけで閉鎖的なコミュニティを作っています。シンガポールやフィリピンやインドネシアでも、華僑は白人と組み、現地人を差別して自分たちの利益を追求しています。
世界に散らばる華僑は互いに密接に連絡を取り合っています。2011年6月、世界の華僑の団体が大挙して尖閣諸島の中心の一番大きな島である魚釣島に上陸するという計画があるそうなので、日本はそれに備えて尖閣諸島を守る態勢を早急に作らなければなりません。
中国人は人肉を食べていたというのは本当ですか?
本当です。中国料理は「四つ足で食べないものは机だけ」と言われるように何でも食べます。遊牧民族は獣を捕ってバラバラにし、血や脳味噌まで無駄にしません。そして中国には飢餓になると、飢え死にした者を食べて他の者が生き延びてきた歴史があるのです。中国近代文学の巨人といわれる魯迅の『狂人日記』は、自分も食べられてしまうかも知れないという恐怖におののく青年の物語です。魯迅は「中国人は同じ人間を食べる。中国の歴史は周りの国を食べ散らかしてきた歴史だ」と書いています。
『三国志』の中にもこんな話があります。主人公の劉備玄徳が戦いに負けて、1人でさまよっていると若い漁師が同情して一晩、泊めてくれます。大変なご馳走をしてもらい、翌日、出発しようと思って何気なく隣の部屋をのぞくと、切断された漁師の妻の死体があった。漁師を問い詰めると「先生を歓待するために愛する妻を殺しました」と泣いて告白する。すると劉備玄徳は感激して「それは感心なことだ。俺が天下を取ったら、訪ねてきなさい。取り立ててやるから」とほめる……作家の吉川英治は『三国志』を書く時に、この話を入れようか、入れまいか、迷ったそうです。でも原典にあるのだから仕方なく入れました。そして「漢民族がどのような民族か、知る参考になるだろう」という感想を述べています。
万里の長城はなぜ作られたのですか?
今の中国にある万里の長城は昔のものよりもずっと南にあります。もともとあった万里の長城は東は河北省山海関から西は甘粛省嘉峪関までの約2400キロ、高さ約9メートルの大城壁でした。春秋戦国時代にまず一部が築かれ、秦の始皇帝が増築しました。「万里の長城」と名付けたのも始皇帝です。
中国の歴史は北方の異民族との戦いでした。異民族の侵入を防ぐために万里の長城は造られたのです。今の中国はたまたま漢民族政権ですが、漢族が天下を取った時期は中国の歴史の中のわずか4分の1ぐらいです。今の中国には漢民族の他になんと55の民族がいます。それぞれの民族がそれぞれ固有の歴史・言語・文化・宗教・伝統を持っているのに中国共産党は台湾の原住民までをひっくるめて「中華民族」と呼んでいるのです。アメリカもインドも多民族国家ですが「アメリカ民族」「インド民族」などという言葉はありません。「中華民族」という奇妙で意味不明な言葉を誇らしげに使っているのは中国人だけです。つまり「中華民族」には定義がないのです。もし日本が中国の「自治区」になったら、私たちも「中華民族」になってしまうのです。
「中華思想」とは何ですか?
中国大陸で2千年続いた支配の原理です。中国こそが世界を治める文明の「華」であり、周辺の国は野蛮で下等な「夷(えびす)」だという考え方を「中華思想」または「華夷秩序」と言います。古代から中国の周辺の国は中国の皇帝に貢物を持って挨拶に行きました。これを「朝貢」と言います。すると皇帝が「お前が自分の国を治めることを許す」と言って「王位」を与えます。つまり「王」は「皇帝」よりも下の身分なのです。このようにして皇帝と君臣の関係を結ぶことを「冊封体制」と言います。
東アジアの中で唯一「冊封体制」に従わなかった国が日本でした。7世紀、聖徳太子は隋(ずい)の皇帝、煬帝(ようだい)に手紙を出します。有名な「日出づる処(ところ)の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」という手紙です。それを見て煬帝は「蛮夷の書、無礼なり」と怒ったと伝えられています。当時の隋は誰もが怖れる大国でした。その皇帝に対して聖徳太子は「あなたは皇帝だが、私も同じ天の子で、対等だ。しかもわが国は日の出る国だから、あなたの国よりももっと偉い」と書いたのです。これによって日本は中国とは距離を置いて独自の歴史・文化を育むことができました。「天皇」という呼称にも日本人の知恵が感じられます。中国の皇帝と同じではなく、しかも対等な呼称として「天皇」が考えられたのです。
日本とは対照的なのが朝鮮でした。朝鮮は周辺の国の中でもっとも中国に影響を受け、忠実な属国でした。その結果、西洋列強の脅威に対抗できず、近代化が遅れて日本に併合されました。今でも韓国人は「小中華思想」を持っています。自分たちは中国の皇帝の1の家来だから世界で2番目に偉いのだ、という考え方です。韓国人が日本人を見下すのは、自分たちのほうが中国に近い=世界の中心に近い、と考えるからです。
「易姓革命」とは何ですか?
中国の皇帝は「天子」と呼ばれます。天子は天帝(最高神)から天命を受けた、つまり自分が天に選ばれた超越的な存在だと信じています。中国の皇帝にはそれぞれ姓があります。例えば唐の皇帝の姓は「李」、漢の皇帝の姓は「劉」です。
「易姓」とは「姓を変える」という意味で、天子が徳を失うと新しい姓を持った別の民族が現われて新しい王朝を建てるという、中国に昔からある政治思想です。他民族を侵略することは「徳化」といいます。徳のない地域に徳を広めるということです。もちろんこれは武力による侵略を正当化しているに過ぎません。
中国では王朝が変わるとそのたびに前の王朝を徹底的に批判し、否定しました。前の王朝が築いた文化や財産を破壊し、戦乱によって数千万人単位で人口が激減しました。中国の王朝の交代は日本の歴史の「奈良時代」「平安時代」「鎌倉時代」「室町時代」などとは根本的に違います。同じ民族の間で政権交代をするのではなく、民族そのものが変わるので血のつながりがありません。王朝が変わるたびに言語・文化・風俗・習慣・価値観などすべてが変わるので、歴史に連続性がないのです。ある特定の一族が権力を独占するのですからさまざまな弊害があり、一つの王朝がそれほど長続きしません。それに対して日本は万系1世の天皇がいるので、歴史に断絶がありません。中国人にとってはこの日本の皇室が何よりも羨ましく、憎くて仕方がないのです。
漢字は誰が作ったのですか?
秦の始皇帝です。ですから本当は「漢字」ではなく「秦字」です。しかし秦は長く続かなかったので、その次の「漢」の時代の名前を取って「漢字」としました。始皇帝が作る前にも漢字はありましたが、地域によって発音が違っていました。始皇帝はそれを「漢字は1文字1音にする」と決めたので、同音異議語が増えてしまいました。始皇帝は自分の命令を全国に行き渡らせるために文字を統一しました。つまり漢字はもともと皇帝が官僚に命令を下すための文字なのです。字画が多く、固い感じがするのはそのせいでしょう。
日本は漢字を取り入れましたが、日本風に改良しました。ルビという振りがなを発明したのです。また漢字からひらがなとカタカナを作り出しました。かなの発明によって知識人だけでなく庶民も漢字が読めるようになりました。漢字はかなによって新しい命を吹き込まれ、政治のための文字からコミュニケーションのための文字に生まれ変わったのです。
なぜ中国のトイレは汚いのですか?
中国を旅行すると、一番困るのがトイレが汚いことです。都会のホテルなどはきれいになりましたが、田舎へ行くとまだまだ汚く、しかも隣との境がなく、世間話をしながらしゃがんで用を足している中国人の姿に驚きます。ただ穴が空いているだけで、のぞき込むと下で豚が口を開けて待っているのが見えたりする農村のトイレもあります。
トイレの文化を見ただけで中国人と日本人の感覚がいかにかけ離れているか、はよく分かります。東洋人の中で日本人ほど清潔を愛する民族はいません。江戸時代に日本を訪れた西洋人がその清潔さに驚き、記録に書き残しているほどです。日本の寺では一番の高僧がトイレ掃除をします。掃除も修行の一つなのです。トイレをきれいに使うことは次に使う人への思いやりでもあります。中国のトイレが汚いのは、他者への思いやりを教えない中国の教育のせいかも知れません。
儒教とはどのような宗教ですか?
今から約2500年前の思想家、孔子が説いた言葉を弟子たちがまとめ、世に広めたもので、宗教というよりは哲学に近いかも知れません。儒教でもっとも大切とされる価値は「孝」です。孔子はたとえ父親が悪事を働いても子供はそれを隠さなければならない、と教えています。しかし日本に儒教が入って来ると、「孝」よりもっと大切な価値として「忠」が優先されるようになりました。日本では私的な家族関係よりも共同体全体に尽くす公(おおやけ)の心が重視されたからです。
孔子の教えを書いた『論語』は日本でも知識人の必読書でした。今でも『論語』は道徳を説いた素晴らしい本というイメージがありますが、実際の『論語』は非常に現実的な処世術のようなものです。いかに厳しい世の中をうまく渡っていくか、ということを説いたドライなものなのですが、日本では『論語』は教育書として取り入れられたので、道徳的な側面が強調されました。その結果、「儒教を生みだした中国は素晴らしい精神文化を持っている」「日本は中国に学ばなければならない」という錯覚を持つ日本人が非常に多いです。
中国では儒教の説く「仁・義・礼・智・信」はあくまでも支配階級の間でのみ大切とされる価値観でした。中国には支配する者と支配される者の2種類の人間しかいません。支配される側の人間のことは孔子は考えていませんでした。そのことは孔子が醤(ひしお)という人肉の塩辛を食べていたという中国の史書の記録から明らかです。中国では『論語』は科挙に合格するための必読書でした。『論語』を本気になって学び、それを自ら実践したのはむしろ日本の武士でした。日本の武士道こそが儒教のもっとも良いところを理想的な形で実現したと言えるでしょう。
「科挙」とは何ですか?
中国の官吏登用試験のことです。科挙は隋の時代に始まって清(しん)の時代、1905年までなんと1300年間続きました。秀才・進士・明経など六つの科目があり、試験科目は経典・詩文などでした。受験生は試験に出そうな経典や古典をひたすら暗記します。自分の頭で考えることは求められず、ひたすら暗記するだけの受験地獄が1300年続いたので中国からはエジソンもアインシュタインも生まれなかったのです。日本は奈良時代に一時期、科挙を取り入れましたがその弊害に気づき、すぐに止めました。
中国語にあって日本語にない言葉は「清官」「官禍」です。日本ではほとんどの役人が真面目で賄賂を取ることなどないのでこういう言葉がありませんが、中国では役人が不正を働かないほうが珍しかったのです。科挙に合格して役人になると地位も名誉も富も手に入ります。中国では官僚を「大人」、庶民を「小人」と呼びます。本来、官僚は国のために尽くすものですが、中国には公(おおやけ)の概念がないので、役人は地位を利用してひたすら庶民を搾取しました。
しかし1905年、日露戦争で日本が勝ったのを見た清政府は科挙を廃止することを決断します。近代化する日本と迫りくる西洋列強への恐怖から、科挙を続けていては国が滅ぶ、と気づいたのです。そして日本留学を官僚になる条件にしました。日本に留学して近代化を学ぼうとしたのです。しかし、今の中国も相変わらず役人天国です。一部の共産党幹部と役人が圧倒的多数の国民を搾取しているという構造に変わりはありません。
「以夷征夷」とは何ですか?
中華思想では中国以外の国はすべて「夷」「蛮族」でしかありません。「以夷征夷」とは「野蛮な夷狄同士を争わせ、文明的な中華民族が漁夫の利を得る」という、中国人がお得意の伝統な戦略です。大東亜戦争の時、中国共産党はこれを使いました。中国国民党に押されて劣勢だった中国共産党は日本軍と国民党を戦わせ、結局日本を大陸から追い出し、国民党を台湾へ追いやって棚からぼた餅で大陸を占領し、中華人民共和国を建国しました。
中国人は情報戦・宣伝戦も得意です。事実を歪曲・捏造し、自分たちが被害者であると声高に宣伝して、徐々に自分たちの立場を優位に持って行きます。これは騎馬民族の習性でもあります。広大な大陸を駆け回って戦ってきた歴史を持つ騎馬民族は相手の陣地に入りこみ、情報を取って来ることに長けています。それに対して農耕民族である日本人は情報の価値にあまり敏感ではありません。大東亜戦争も結局は情報戦・宣伝戦に負けたと言えます。これから中国を相手にするなら、日本も情報戦・宣伝戦に強くならなければなりません。
「宦官(かんがん)」とは何ですか?
宮廷に仕える去勢された男性のことです。中国の歴代王朝の中でも特に後漢・唐・明の時代の宮廷にはたくさんいました。去勢されれば事実上、男性ではありませんから皇帝も安心して皇后や側室たちの側に出入りさせました。やがて宦官の中から皇后に寵愛されて権力を握る者が現われ、政権を左右するという弊害もありました。宦官は遊牧民族が牛や馬、羊などを去勢した習慣から生まれたものです。
宦官と並んで残酷な中国の習慣は纏足(てんそく)です。纏足は4,5歳の女の子の足の親指以外の指を足の裏に折りまげて布で固く縛り、足の成長を止めてしまうものです。纏足をすると大人になっても足が大きくならず、走ることもできません。若い娘が小さな足でよたよたと歩く様子が男性の欲情をそそるらしく、唐の時代から南宋にかけて流行しました。宦官や纏足の手術後、炎症や化膿で多くの人が死にました。ヨーロッパの宮廷にも朝鮮の宮廷にも宦官がいましたが、日本は宦官や纏足のような自然に反する、グロテスクな習慣は受け入れませんでした。
参考文献:石平・加瀬英明『徹底解明! ここまで違う日本と中国』(自由社)
日下公人・石平『中国の崩壊が始まった!』(ワック出版)