「教育勅語」というと古臭い、封建的な教えというイメージがありますが?

 勅語(ちょくご)=天皇が国民に下されるお言葉、という意味です。この耳慣れない,堅い言葉の響きに抵抗を感じる人が多いです。文体が漢文調だから時代遅れだ、ということを言う人もいます。また「教育勅語」は儒教の教えを押しつけるものだ、という意見もよく聞きます。
 しかし、そういうことを言う人は実際に「教育勅語」を読んだことがあるのでしょうか? 読みもせずにイメージだけで、そう言っているのではないでしょうか? 
 原文を読むのは難しくても訳はたくさん出ていますから、是非一度、読んでみていただきたいと思います。


 確かに「教育勅語」は儒教をベースにしていますが、儒教道徳そのものではありません。例えば「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信ジ」という文章があります。これは『孟子』の中の「五倫」そのものだ、という指摘があります。
 しかし「五倫」の中で真っ先に出てくる「君臣に義あり」が「教育勅語」にはありません。「五倫」の「父子に親あり」→「勅語」の「父母ニ孝ニ」、「五倫」の「長幼に序あり」→「勅語」の「兄弟ニ友ニ」、「五倫」の「夫婦に別あり」→「勅語」の「夫婦相和シ」と、微妙に変化しています。
 つまり儒教の男尊女卑的な面や、上下関係を強調する面が薄れ、近代風にアレンジされていることが分かります。それは儒教という特定の思想に偏ることがなく、思想や立場の違いも時代も超えて万人が受け入れられる「国民道徳」のようなものをめざして「教育勅語」は作られているからです。

「教育勅語」は誰が作ったのですか?

 明治23年(1890年)、明治天皇は当時の総理大臣、山県有朋に「徳育に関する箴言(しんげん)を編纂して、それを子供たちに教えたらどうか」とおっしゃいました。山県有朋は芳川顕正(あきまさ)を文部大臣に任命しました。芳川文部大臣は天皇の命を受けて、東大教授の中村正直(まさなお)に草案の作成を依頼しました。


 中村はもともとは儒学者でしたが、イギリス留学がきっかけでキリスト教徒になった人物でした。日本が西洋列強に対抗して強国になるためにはキリスト教を採用すべきだ、という考えの持ち主である中村が作った草案は、キリスト教色のきわめて強いものでした。山県はこの草案を正式な内閣案として決定する前に、法令上の問題はないかどうか、法制局の長官だった井上毅にチェックさせようとしました。ところが井上は、この内閣案を一読して「これは納得できない」と言って廃案にしてしまいました。山県は当惑して、「なぜこれではだめなのか。では、どういう案にすれば良いのか具体的に示してくれ」と、井上に草案の起草を依頼しました。
 

 山県有朋は軍人の心構えを説いた「軍人勅諭」を作った人物です。ですから「軍人勅諭」の教育版のようなものを作れば良いのではないか、というイメージを持っていたようです。しかし井上はその考えも「軍人の場合は天皇陛下の直接的統率の下にあるが、天皇と国民の日常の関係はそういうものではない」と言って拒否しました。


 結局、井上は苦心に苦心を重ねて一人で草案を完成させ、それを明治天皇の側近であり、天皇の信頼厚かった元田永孚(ながざね)に見せました。井上と元田の間にも考え方の相違はありましたが、二人には儒教の「徳」というものを重んじるという共通点があり、国家と天皇に対する忠誠心を共有していました。二人が最終案をまとめ、明治天皇の裁可を得て明治23年10月30日、「教育勅語」が発布されました。

なぜ「教育勅語」が必要だったのですか?

「明治維新」というと長く続いた徳川幕府に代わって天皇親政になり、その天皇のもとに政府が樹立され、日本が世界に一躍、躍り出る基盤を築いた画期的な大変革だと考えられています。確かに「明治維新」は日本が西洋列強の植民地になる危機を乗り越えるためにどうしても必要なものでした。
 新政府による「富国強兵」の掛け声の下、中央集権の体制を作り、憲法を作り、産業を興し、軍隊を作り、近代的な国家をものすごいスピードで作り上げてゆきました。それは奇跡のような偉業でした。しかし、あまりにも急激な変革を一挙に成し遂げようとしたために、さまざまなひずみが生まれたことも事実でした。


 西洋文明を学ぶために多くの視察団や留学生が欧米各国に派遣されましたが、その中には西洋に魂を奪われ、日本の歴史や文化を遅れたものとして蔑む者が現われました。のちの文部大臣、森有礼(ありのり)もその一人で、「日本が遅れているのは世界に通用しない日本語のせいだ。公用語を英語にすべきだ」と主張していました。
 教育現場も混乱していました。「とにかく西洋文明を学ばなければ」という強迫観念にかられた教師はヨーロッパの書物を翻訳したものばかりを教材にして、地域や学校によってバラバラな教育をしていました。そのような状況を憂いていたのが明治天皇でした。


 明治天皇は地方を御巡幸になる時には必ず学校をご覧になりました。ある学校に行かれると、生徒が英語でスピーチをしていたそうです。陛下がその生徒に「その英語は日本語で何と言うのですか」とお尋ねになると、その生徒は答えられなかったそうです。
 また、ある小学校では、生徒は農民の子供や商人の子供ばかりなのに、彼らの生活とはまったくかけ離れた難しい理論を教えていました。その背景にあるのはすべてを欧米風にしようとした教育政策でした。
 「知育・徳育・体育」は教育の三本柱であるべきなのに、知識を吸収することばかりに必死になり、徳育は全くかえりみられませんでした。このままでは子供たちは自分たちのほうが親よりも知識があって偉いと思い込み、年長者をバカにし、社会の秩序は乱れ、ついには国家が危うくなる、と明治天皇は深刻な危機感を抱き、何とか教育を正さなければならない、と思われたのです。


井上毅とはどのような人物ですか?

 井上毅(こわし)は熊本藩の下級武士の三男に生まれました。幼い時から「神童」と呼ばれ、4歳で親が読む「百人一首」を覚えてしまった、と言われています。熊本藩の藩校で儒学や漢学を学び、20歳の時には早くも有名な儒学者であった横井小楠(しょうなん)と論争をしています。
 横井は今でいえば国際派の学者で、徹底した開国論を説いていました。それに対して井上は開国して海外の物が入ってくるようになると必然的に商が栄え、必要以上に商が大きくなると人々は贅沢に慣れて、怠惰になる、と主張しています。
 鎖国時代に戻ることはできないことは井上も当然、分かっていたはずですが、開国によって入ってくる悪習から日本人のアイデンティティーをいかに守るか、ということが井上の思想を生涯、貫くテーマでした。


 明治5年、ヨーロッパの司法制度を視察する司法調査団の一員として井上はフランスに留学します。帰国後は岩倉具視(ともみ)、伊藤博文のブレーンとして、重要法制の立案をするようになります。専門の刑法、刑事訴訟法などだけでなく国家政策の全般にわたって関わり、まさに明治政府のグランド・デザイナーのような役割を果たしました。


 明治28年に51歳で死去。徳富蘇峰(そほう)は井上のことを評して「彼の真実清廉なる生涯は、実に一代の標本といわざるを得ず。彼は身を明治政府に委ね、ついにその職責に討死したるなり。彼は愛国者といわれるよりは、むしろ憂国者というの更に正当適格なるを見るなり」と言っています。中江兆民(ちょうみん)は井上が死んだあと、「今の日本の政治家中には思想する能力者が全くない。思想する政治家としては井上毅君ただ一人を見たが今はすでに亡い」と書いています。


大日本帝国憲法を作ったのは誰ですか?

 明治13年頃から自由民権運動の高まりにより、国民の間に憲法制定や国会開設を求める動きが起こりました。大隈重信は明治16年に議会を開き、イギリス流の議員内閣制を採用すべきだ、と主張しますが、井上はこれをあまりに急進的であると考えました。そこで岩倉や伊藤に働きかけて、プロシア憲法に基づいた「欽定憲法」を制定する、という方針に変えました。「欽定憲法」=天皇が定める憲法、という意味です。


 大日本帝国憲法は「欽定憲法」だから民主的ではない、と今の学校教育では教えています。また多くの人が大日本帝国憲法は天皇が国家主権を一手に掌握した絶対主義専制憲法だ、と思っているようです。しかし井上にはそんな発想はまったくありませんでした。当時、もし民定憲法を制定していたら国民の間に議論が百出してまとまらず、下手をすれば国論が分裂する危険があったからです。運よく制定できても、その運用の際にまた揉めて、結局は憲法の権威自体が失われることを井上は怖れました。


 明治15年、伊藤博文はモデルとなる憲法を研究するために欧米視察に出かけます。井上はその間、国内で欧米各国の憲法や各種の法律を比較、検討しました。しかし明治18年、いよいよ憲法の起草が迫ってきた頃、井上は突然、日本の歴史、特に皇室の歴史の勉強に取り組みはじめます。日本史を知らなければ日本の憲法はとても書けないことに気づいたからです。そして憲法を起草する前にまず「皇室典範」という、日本の歴史や文化や習慣が分かっていなければ一歩も前に進めない「もう一つの憲法」に取りかかります(皇室典範の起草者は柳原前光)。


 大日本帝国憲法は伊藤博文が作った、と教科書には書かれていますが実際には井上の存在なくしては明治憲法の成案はできませんでした。明治憲法は当時の諸外国が驚くほど議会の権限を広く認めています。そして単なるプロシア憲法の模倣ではなく、西洋の憲法の長所を取り入れながらも日本の精神を映すものになっていますが、その背景には井上の思想がありました。大日本帝国憲法はこのような経緯を経て明治22年2月11日に発布されました。


「うしはく」と「しらす」はどう違うのですか?

 井上は『古事記』『日本書紀』から『日本史』に至るまで徹底的に調べ、研究していましたが、その中で『古事記』の大国主神(おおくにぬしのかみ)の国譲りの物語に興味を引かれます。出雲を治めていた大国主神に対して、天照大神(あまてらすおおみかみ)の命を受けて地上に降りてきた建御雷神(たけみかずちのかみ)が「ここは本来、天照大神の御子が<しらす>国なのだから、この国を譲るように」と、交渉する場面です。天照大神や歴代天皇の場合はすべて治める=<しらす>と書かれ、大国主神や一般の豪族の場合は治める=<うしはく>と書かれていることに井上は気づきました。そして、この二つの言葉の意味の使い分けに込められている意味を調べてみました。


 研究の結果、<うしはく>=権力で支配する、<しらす>=知る、という意味だということが分かりました。つまり天皇が国を治めるということは単に武力や権力でおさえるのではなく民の心や神々の心を知り、それをそのまま鏡に映すように自分の心に写しとって、それに自分を合わせようとすることだ、ということが分かったのです。皇室に代々伝わる三種の神器の中で一番、大切なものが鏡である、という意味もここにありました。井上はこの<しらす>の理念こそが日本の国体の根本であると確信しました。


 西洋では国家の成立は君主が国民を「搾取」するという形で始まっています。君主と国民の間には利害の対立があり、だからこそ国民は君主を倒す「革命」を起こすのです。
 しかし日本では君主と国民の間に利害の対立がありません。天皇には民の心を知ろうとする「徳」があり、その「徳」に応えようとして国民が忠義を尽くし、君主と国民が一体となって国を盛りたててきたのです。このような崇高な理想が古代に存在し、それが今日まで絶えることなく続いているということを私たち日本人は誇りにすべきだと思います。

「修身」とは何ですか?

 教育勅語の発布から2年後の明治26年、井上毅は第2次伊藤博文内閣の文部大臣に就任します。文部大臣としての彼の最大の功績は尋常小学校に「修身科」を創設したことでした。これによって「教育勅語」は国民の間にまたたく間に浸透してゆきました。日本の教育に核となるものが出来て、日本人の精神の骨格が作られ始めたのです。


 「修身」は今でいえば「道徳」です。
 当時の「修身」の教科書の目次を見ると「よく学びよく遊べ」「自国を守れ」「友達は助け合え」「怠けるな」「喧嘩をするな」「元気よくあれ」「行儀を良くせよ「物を粗末に扱うな」「親を大切にせよ」「親の言いつけを守れ」「兄弟仲良くせよ」「過ちを隠すな」「嘘を言うな」「自分の物とひとの物」「近所の人」「思いやり」「生き物を苦しめるな」「ひとに迷惑をかけるな」「良い子供」などの項目があり、それぞれの項目に挿し絵がついていて、具体的な例をあげて分かりやすく読めるようになっています。子供たちは「修身」を学ぶことで何が人として正しい生き方なのか、何が大切なことなのか、を学び、それを生活の中で実践するようになってゆきました。

「教育勅語」のような道徳は国際的に通用しないのではありませんか?

 そんなことはありません。
 「教育勅語」が海外に知られるようになったのは発布されてから15年後の明治38年、日露戦争の時でした。戦争が始まると日本政府は国際世論を味方にするために伊藤博文の娘婿だった末松謙澄をヨーロッパに、金子堅太郎をアメリカに派遣します。その時、二人は「教育勅語」の英訳を持っていきました。そして「ここにロシアにも負けない日本人の精神が込められています」と各地で講演すると、どこでも「教育勅語」が大変な評判になったそうです。


 東洋の小国、日本が大国、ロシアを破ると日本は一躍、世界の関心を集めるようになりました。なかでもイギリスは日本の強さの原動力は「教育勅語」をもとにした道徳教育の力である、と考え、講演者の派遣を日本政府に要請してきました。そこで文部省はイギリス留学の経験者でもある菊池大麓を派遣しました。菊池は明治40年、イギリスの各地を回って日本政府の道徳教育への取り組みを紹介しました。全英教員組合の機関誌はこの菊池の講演を取り上げて「この愛国心が強く、勇敢無比な国民は、教育上の進化を続け、結果としてその偉大な勅語に雄弁に示された精神をもって、国民的伸展の歴程を重ねていくであろう」と絶賛したそうです。


「教育勅語」を復活させることはできないのですか?

 そのように世界から称賛された「教育勅語」でしたが大東亜戦争敗戦後は一転して、全否定されることになります。それは、当然のことでした。GHQ(連合国軍最高司令部)にしてみれば、大東亜戦争であれほど勇敢に戦って最後までアメリカを苦しめた日本人の精神の核となるもの=大和魂を取り除いて日本を弱体化したい、と考えるのは当たり前のことです。GHQが作成した「降伏後の初期対日方針」には「占領の目的は日本が再び米国の脅威となり、または世界の脅威とならざることを確実にすること」とはっきり書かれています。


 しかし「教育勅語」は法律ではなく、権力で国民に強制したものでもありません。ただ人として大切なことは何か、をまとめて天皇自らがそれを実践しますから、みんなでこれを守りましょう、というような天皇の個人的なお考え、という形のものです。これは実は井上毅が天皇を守るためにした措置でした。つまり「教育勅語」が政治の道具にならないように、法的拘束力をわざと持たせなかったのです。


 そこでGHQはまず憲法を変え、教育基本法を変えることにしました。そして各学校にあった天皇・皇后両陛下の写真を掲げる御真影奉安殿を廃し、教育勅語奉戴式をなくせ、といった命令を出すことから始めました。そのような形式を変え、外堀を埋めた上で、最終的に「教育勅語」は憲法や教育基本法の精神とは矛盾するものだから、という理由で国会で「教育勅語」の「失効」を決議するように持っていったのです。


 当時の吉田内閣は「教育勅語は普遍性豊かなものであって、今後の日本社会でも十分、通用するものである」と主張してかなり抵抗しました。しかし、最終的には「失効」決議をせざるを得ませんでした。しかし「教育勅語」はそもそも法律ではなく、法的効力がないのですから、この「失効」決議自体が有効ではない、という解釈も成り立ちます。


 「教育勅語」が教室から消えて果たして日本社会は良くなったのでしょうか? 戦後生まれの子供たちは戦前の子供たちよりも幸福になったのでしょうか? 老人の孤独死や親が子を殺したり、子が親を殺したりする痛ましいニュースを聞くと、日本人の精神の核となるものがやはり必要なのではないか、と思います。
 社会の基本は家庭であり、家族の絆です。「教育勅語」に代わるものがないのなら「教育勅語」を復活させるべきだと思います。


参考文献:伊藤哲夫『教育勅語の真実』(致知出版社)


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