「近隣諸国条項とは何ですか?」の回答の中に年号の間違いがあります。1884年→1984年 です。申し訳ありません。

「南京大虐殺」とは何ですか?

 1937年12月13日、日本軍が当時の中国の首都、南京を占領してから6週間にわたって中国の一般市民を大量に殺したり、女性を強姦したり、略奪、放火などの残虐行為を行なった、といわれる事件です。
 南京には「南京大屠殺紀念館」があり、多くの中国人だけではなく日本人も訪れています。南京大虐殺を描いた映画もこれまで何本も作られており、2011年12月16日にはチャン・イーモウ監督が制作費約70億円をかけて作ったといわれる映画「The Flowers of War」が中国で公開されました。
 この事件があったと言われているのは今から70年以上も前ですが、中国は未だにこのことを反日キャンペーンに利用しています。

 
しかし今、中国を支配しているのは中国共産党であり、当時、日本と戦っていたのは中国国民党です。ですから今の北京政府はこの事件とは何の関係もありません。また当時の中国(中華民国)政府もほとんど日本を非難していません。
 中国国民党は1937年12月1日〜38年10月24日までの間に300回も外国人記者を集めて記者会見を開き、日本の悪事を宣伝していましたが、南京については一言も触れていません。


 ただ1938年2月の国際連盟理事会で中華民国の顧維均代表が「南京で2万人が虐殺された」と演説し、行動を起こすように国際連盟に訴えています。しかし、国際連盟は日本に対する非難決議を行なっていません。


 この事件は奇妙なことがいろいろあります。南京は中国の首都、といっても面積はさほど広くありません。東京のJR山手線の内側の広さとほぼ同じです。 日本軍は上海を占領した後、南京に向かって進軍したので、南京市民の大半は南京が陥落する前に上海に避難していました。
 戦闘の巻き添えになりたくないからです。残った南京市民は約20万人でしたが、彼らも南京城内の「安全区」に避難していました。「安全区」への兵士の立ち入りは厳しく禁じられていました。それなのに日本軍は約30万人の中国人を虐殺した、と非難されているのです。20万人しかいないところでどうやって30万人を殺せるのでしょうか? しかも、日本軍が占領して南京の治安が回復すると、上海に逃げていた市民が戻ってきたので南京の人口はむしろ増えているのです。


 このように「南京大虐殺」は、本当にあったことなのかどうかすら疑わしいのです。そして多くの研究者の努力の結果、今ではこれが政治宣伝(プロパガンダ)であったことが証明されています。にもかかわらず、なんと日本の子供が使う教科書に「日本軍は子供や婦女子を含む一般市民を大量に殺害した」と、さも事実のように書いてあり、それが文部科学省の検定に堂々と合格しているのです。


日本軍はどこの軍隊と戦っていたのですか?   

 当時、日本は支那事変を戦っていました。相手は中国国民党の軍隊で、中華民国の総統は蒋介石です。
 1945年、日本が大東亜戦争に負けると蒋介石は日本に対して「支那」という言葉を使うことを禁じたので「支那事変」は「日中戦争」という呼称に変わりました。「支那は差別語だから使ってはいけない」と私たちは思わされていますが「支那」は差別語ではありません。もし差別語なら、なぜ「東シナ海」という呼称に対して中国は文句を言わないのでしょうか?


 当時、中国共産党は国民党よりもはるかに勢力が弱かったのですが日本の敗戦後、国民党は共産党に負けて蒋介石は台湾に逃げました。「南京大虐殺」はおそらく蒋介石が捏造したものでしょうが、今の北京政府は蒋介石の置き土産といえる「南京大虐殺」をちゃっかりと利用しました。
 1972年、日本は中国と国交を回復しますが、北京政府はその前年の1971年、朝日新聞の本多勝一記者を中国に招待しました。本多記者は中国で取材した「証言」をもとに朝日新聞に「中国への旅」を連載しました。これが日本で反響を呼ぶと、それに呼応するように1985年、南京に「南京大屠殺紀念館」を建てたのです。

「南京大虐殺」を目撃した人はいるのですか?

 いません。
 当時、100人を超す日本人記者や文化人が南京にいましたが、誰も「南京大虐殺」を見ていません。朝日新聞は1937年12月20日付けで南京特派員の報告を載せていますが、見出しは「平和甦る南京―皇軍を迎えて歓喜沸く」でした。「皇軍」とは日本軍のことです。


 南京城内の「安全区」には15人の国際委員会メンバーがいました。彼らはみな欧米人で、国民党政府を支援する国の人間ばかりでしたが、日本軍が「安全区」を手厚く保護したことに感謝すら示しています。当時、中国一の大都会であった上海には欧米系の新聞社や雑誌社、通信社が数多く駐在していました。彼らもまた日本に対して好意的ではなかったにもかかわらず「南京大虐殺」にはまったく触れていません。


 しかし1937年の時点では「なかった」南京大虐殺が10年後、日本の敗戦後、開かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)では「あった」とされたのです。


「虐殺」とは何ですか?

 無抵抗の市民を大量に殺害することです。
 日本の歴史には虐殺といえるものがないので日本人にはどういうことなのかピンと来ませんが、中国では虐殺のない戦争はなかった、と言っても過言ではないでしょう。その理由は都市の構造と戦争のやり方にあります。


 中国の都市は周囲を城壁でぐるっと取りかこみ、敵の襲撃を防いでいます。敵が来ると城門を閉じるので、一般市民もその中に入ることになります。市民は「安全区」に避難しますが、戦闘が始まると軍服を脱いで「便衣兵」になり、「安全区」の市民の中に紛れこむ兵士が続出します。
 「便衣兵」とはゲリラのようなものです。本隊が降伏した後、ゲリラになってテロをやるのです。日本軍は常に「便衣兵」に悩まされていました。一見、非戦闘員に見えても武器を隠し持っていて、隙を見て撃ってくるので油断ができません。
 つまり中国では戦争になると戦闘員と非戦闘員の区別がつかない混乱状態になるので、巻き添えになる市民がたくさん出るのです。「便衣兵」は戦闘員ですから日本の兵士が見つけ出して処刑したことはあったでしょう。しかし、軍服を着ていない「便衣兵」は「戦争捕虜」ではないので、処刑しても国際法上違法ではありません。


 当時の中国では兵士=強盗のようなものでした。きちんとした組織も軍紀もなく、戦う理由すら分かっていない兵士の集団なので,士気が上がるはずはありません。勝ち目がないと分かると我先に逃げ出します。ですから日本軍は実際の戦闘では国民党軍を圧倒しました。上海から南京へと破竹の勢いで進みました。しかしその強さが残酷であり、非人道的だと国民党が宣伝したのに対し、日本はそうではない、という宣伝ができませんでした。


 敵の残虐性を宣伝するということにかけては中国は伝統があります。蒋介石は1928年、北伐の時に敵である張作霖や張宗昌軍の残虐行為を書いたビラを大量に撒いています。戦争とは軍人が武器で戦うもの、戦闘行為が終われば戦争は終わり、と日本人は単純に考えがちです。しかし、中国人にとっては作戦よりも宣伝が優先するのです。「南京大虐殺」プロパガンダが世界中に認められるまで中国人は戦いつづけるでしょう。

「南京大虐殺」があったという根拠はあるのですか?

 南京で虐殺があった、と初めて世界に発信したのはアメリカの新聞「シカゴ・デイリーニューズ」のアーチボールド・スティール特派員でした。南京陥落直後の12月15日にアーチボールド特派員が、その2日後に「ニューヨーク・タイムズ」の特派員ティルマン・ダーディンが報じています。現地の特派員報告だったので、読者に対する説得力がありました。


 また南京陥落から7カ月後の1938年7月、イギリスの新聞「マンチェスター・ガーディアン」の特派員でオーストラリア人のハロルド・ティンパーリが南京における日本軍の残虐行為を1冊の本にまとめて『戦争とは何か』というタイトルで出版しました。この本に原稿を寄せたのはみなアメリカ人で、そのことが却って第三者による目撃記録なのだから信用できる、という印象を読者に与えました。しかしのちに、ティンパーリは国民党中央宣伝部の顧問であったことが判明しました。


 アメリカ国内のいくつかのキリスト教系機関紙も南京での虐殺を書いています。当時、戦争中にもかかわらず約8千人の宣教師が中国全土で活動をしていました。彼らの背後にはアメリカ国内の慈善団体、YMCAなどがあり、それぞれ多数の信者を抱えて政治家に対する発言力も持っていました。ですから彼らの報告もまた政治的意図がなかったとは言えません。


 不思議なのは虐殺があった、と言っているのは欧米のごく一部のメディアだけで当の被害者であるはずの中国人の証言がまったくないことです。北京政府も真相を明らかにしろ、事実を究明しろ、とは決して言いません。それはなぜなのでしょうか?


虐殺がなかったのなら、なぜ証拠写真があるのですか?

 1937年10月4日付けのアメリカの雑誌「ライフ」に1枚の写真が掲載されました。中国のどこかの駅で撮った写真のようで、爆撃を受けて焼けただれた駅の線路の上で赤ん坊が泣いている写真です。赤ん坊はほとんど裸で、ケガもしているようでした。この写真が発表されると、アメリカの世論は「蒋介石は民主主義者、日本軍は残虐」と、一気に反日に傾いてしまいました。しかし、この写真はのちに合成写真であることが判明しました。南京大屠殺紀念館にもこの写真が展示されていましたが、2007年、南京事件70周年記念展示の時にはなぜか展示から外されていました。


 1983年8月16日付けで毎日新聞が「南京大虐殺は事実だ/ 証拠写真を元日本兵が撮影していた」と、大々的に報じました。
 写真は2枚あり、大河の岸辺に多くの死体が折り重なっていて、後ろに材木の山が見えます。しかし、この写真をある元日本兵が見て「これは南京ではなく、かつて自分が戦った新河鎮ではないだろうか。死体は民間人ではなく、中国軍兵士のものではないか」と直感しました。彼は撮影者に尋ねようと毎日新聞に問い合わせましたが、撮影者の連絡先を教えてもらえなかったそうです。写真はインパクトが強く、大きな影響力を持ちます。それだけに写真を偽造して宣伝に使うという手法は中国では古くから発達していました。
 私たちは写真のトリックに騙されないようにしなければなりません。

「堅壁清野」とは何ですか?

 「堅壁」は城壁や土塁を固めることで「清野」は野を清める、といえば聞こえは良いのですが何もかも焼き払うことです。
 日本軍の進撃を前に、国民党軍は南京城の周囲数キロ四方を徹底的に焼き尽くしました。畑の収穫物も民家も家畜も灰にして結局、国民党の幹部は逃げてしまいました。なぜ軍隊が自国の領土や自国民の家や財産を焼くのでしょうか? それは敵に利用させないためで、これが昔からの中国人の戦争のやり方なのです。


 「堅壁」は敵に数カ月包囲されても陥落しないように城を堅固に築くことです。「清野」は敵の食糧になる可能性のある家畜や野菜、敵兵の宿舎になる可能性のある家を残さないように焼くことです。中国では戦争のたびにこの「堅壁清野」作戦が採られるので、兵士だけでなくおびただしい数の農民や市民が犠牲になるのです。


憲兵はどんな仕事をするのですか?

 映画などに出てくる日本の憲兵はたいてい鬼のように描かれています。反政府運動をした者を逮捕して拷問したりする場面もあるようです。しかし憲兵は一般人ではなく、軍人の不法行為を取り締まるのが仕事です。軍隊内の警察官の役割を果たしています。軍隊内の地位はさほど高くありませんが権限は強く、非常事態が起きて警察が機能しない場合は全国民を掌握する立場でした。優秀でなければなれなかったそうです。


 南京戦を戦った元憲兵の証言が記録された本があります(東中野修道編『南京「虐殺」研究の最前線』展転社)。それによると、松井石根(いわね)総司令官は南京に入城する前に「南京城の攻略および入城に関する注意事項」という布告を出したそうです。それは非常に厳しいもので、それに違反した者は軍法会議にかけられたそうです。日本軍の軍紀は厳格なもので、兵士が道端に落ちていた靴を拾って持ち帰っただけで略奪と見なされ、軍法会議にかけられました。それでも大勢の兵士の中には混乱の中で不祥事を起こす者もいたことはいたそうです。強姦もまったくなかったわけではなく、数件はあったので夜間も兵士が「安全区」に立ち入らないように必ず点呼をして人数を確認していたそうです。


 戦後の日本では「南京大虐殺」ばかりが宣伝され、加害者としての日本ばかりが非難されますが日本の民間人が多数、それこそ虐殺された事件が実はたくさんあります。その代表的なものは1928年の「済南事件」と1937年7月29日の「通州事件」です。特に「通州事件」では日本人居留民200人余りが無残に殺されたのですからもし兵士にその情報が伝わっていたらその復讐をしたいと思うのも無理はありません。そのせいか松井司令官は南京占領後、中国人捕虜の扱いに特に配慮するように指示しています。


「近隣諸国条項」とは何ですか?

 「南京大虐殺」が日本の、そして中国の教科書に記述され始めたのは1980年代に入ってからです。そのきっかけとなったのが1982年の教科書誤報騒動です。実教出版社の世界史の教科書の記述が検定によって「日本軍が華北に侵略すると」→「進出すると」、「中国への全面的侵略」→「全面的侵攻」と直された、と日本テレビの記者が報じたのです。
 これは誤報でした。当時の文部省の初等中等教育局長は調査の上、そんな事実はないと否定しましたが、マスコミはこれを無視しました。


 中国や韓国はこの誤報を利用して日本の教科書の記述に対して大幅な修正を要求してきました。そして予定していた小川文部大臣の訪中が中国側から取り消されました。このままでは9月に予定している鈴木善幸首相の訪中も拒否されるのではないか、と焦った政府は8月26日、「歴史教科書についての官房長官談話」を宮沢喜一官房長官が発表しました。


 これを受けて文部省は11月24日、中学・高校の歴史教科書の検定基準に「近隣諸国条項」=「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」を付け加える、と発表しました。この検定基準に合格した歴史教科書が教室に登場したのは1884年度からです。南京に「南京大屠殺紀念館」が建立されたのは1985年ですから、日本のマスコミの犯罪的誤報と中国の動きは予め打ち合わせたようにぴたりと呼応していることが分かります。


「百人斬り競争」とは何ですか?

 日本軍が上海から南京に進撃した際に向井少尉と野田少尉が日本刀でどちらが多く敵兵を斬れるか、という競争をしたという記事を東京日日新聞(今の毎日新聞)が載せました。
 日本刀というものは数人斬っただけで血がべったりと付いて切れ味が悪くなるものです。百人斬るなどということは物理的に不可能です。ですから、この話は刀に関する知識のない記者が戦意高揚のために面白おかしく作ったものでした。


 しかしこの記事の英訳が当時、東京で発行されていた「ジャパン・アドバータイザー」に転載され、さらにティンパーリの『戦争とは何か』の付録に収録されます。しかも、斬った相手は中国の一般人のようにいつの間にか表現が変わっていました。向井・野田両少尉はこの記事が唯一の証拠とされ、戦後、南京の軍事法廷で死刑判決を受け、1948年1月28日、処刑されました。
 また田中軍吉大尉も「三百人斬り」という信じられないような罪名で戦後告発され、南京法廷で銃殺刑に処せられています。
 向井・野田両少尉は無実の罪で処刑された上、「南京大屠殺紀念館」に今も写真をさらされています。日本政府は直ちに抗議して写真を撤去させるべきです。

参考文献:東中野修道『南京「虐殺」研究の最前線』(展転社)
     田中正明『「南京事件」の総括』(小学館文庫)
     田中秀雄「南京虐殺は中国の戦争宣伝」(「歴史通」2012年1月号)
     古荘光一「誰が南京大虐殺を捏造したか」(「WILL」2012年2月号)



「東京裁判」とは何ですか?

 1945年、日本が大東亜戦争に負けたあと、アメリカを中心とする連合国が日本を裁き、占領政策を円滑に行えるように開いた裁判です。
 当初マッカーサーは東京裁判にはほとんど関心がなく、真珠湾を騙し討ちにした東條英機とフィリピンで自分に不名誉な敗走をさせた本間雅晴中将に対する復讐にだけ熱心だったそうです。本間中将は裁判開始後わずか2カ月で処刑されています。
 

 東京裁判ではA級戦犯として28名が1946年4月29日、つまり昭和天皇の誕生日に起訴されています。しかしこの28名がどういう基準でA級戦犯とされたのか、その基準すら明らかにされないほどずさんな裁判でした。
 東條英機ほか7名の戦犯が絞首刑に処せられたのは1948年12月23日、つまり当時の皇太子、今の天皇陛下の誕生日です。将来にわたってA級戦犯の供養ができないようにその日を選んだとしか思えません。


 第二次世界大戦後、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝国代表が集まり、ヒットラーがひきいたナチス・ドイツのユダヤ人迫害をどう裁くか、という話し合いがなされました。この4カ国の合意で「ニュルンベルク国際軍事裁判」が開かれました。そしてこの裁判を行なうために、これまでの戦時国際法にはない「平和に対する罪」と「人道に対する罪」という罪を勝手に作り上げたのです。


 東京裁判でもやはり「平和に対する罪」と「人道に対する罪」で連合国は日本を裁こうとしました。しかし日本にはアウシュビッツなどありません。計画的に捕虜や一般人を大量に殺したという記録もありません。そこで持ち出したのが「南京大虐殺」です。30万人という数字はおそらく広島・長崎の原爆での犠牲者数と釣り合いを取るためだったのではないでしょうか? 原爆こそがまさに「人道に対する罪」なのですが、それを正当化するための日本の戦争犯罪がアメリカは欲しかったのだと思います。


 東京裁判には3つの狙いがあったと言われています。
 一つは「歴史の断絶」です。戦前の日本の歴史、文化、伝統をすべて「悪」として否定し、日本軍は「侵略者」で連合国は「解放者」と決めつけること。 二つ目は「罪の意識を日本人に植えつけること」、三つ目は「復讐」です。東京裁判のウェッブ裁判長はのちに「東京裁判は誤りだった」と認めています。
 しかし、東京裁判の結果を正しいものとして利用しようとする勢力が日本の中にまだ残っています。この、いわゆる「東京裁判史観」の呪縛から自由にならない限り日本再生への道はありません。





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