「検閲」と「焚書(ふんしょ)」はどう違うのですか?

 日本が大東亜戦争に負けたのは1945年8月15日です。その後7年間、日本はGHQ(連合国軍総司令部)に占領されたわけですが、GHQは1945年9月から日本の新聞、雑誌、書籍、ラジオ、映画などの内容を「検閲」と称して自分たちに都合の悪い部分を変えさせたり、個人の手紙を100通に1通ぐらいの割合で開封して内容に問題があれば没収したりし始めました。
いかに戦勝国とはいえ、占領した相手の国の刊行物や私信を「検閲」するというのは実に野蛮で非文明的な行為です。自由の国、民主主義の国アメリカの、それが実態でした。

 しかし「焚書」は「検閲」とは全く別で、既に刊行されている本を没収し、パルプ工場に送って焼却し、国民の目に触れないようにすることです。「焚書」という言葉は紀元前3世紀、秦(しん)の始皇帝が儒教の書物を焼き捨て、儒学者を生き埋めにして殺した「焚書坑儒」という事件から生まれた言葉です。
「焚書」の最初の指示は1946年3月17日に出ており、それから48年4月15日までの間に全部で48回、計7,769点の本が没収されました。それまで本屋や古書店で普通に売られていた本がある日突然「宣伝用刊行物」と呼ばれ、消えてしまいました。没収に当たった担当官は日本人なので、国民にはGHQがそんな指示を出していたことはおそらく分からなかったでしょう。
国民の反発を招かないようにGHQは没収する際の指示をこと細かに出しています。しかし、もし没収に抵抗する者がいた場合は警察力を使え、と指示しています。

 このことは占領時代の秘史でしたが、幸い、個人の持っている本や図書館の本は没収されなかったので、国立国会図書館には残っていました。それを研究した本がようやく最近、出版されました(西尾幹二『GHQ焚書図書開封』1〜6巻 徳間書店)。
その努力のお蔭でGHQが何を目的として「焚書」指示を出したのかようやく明らかになり、大東亜戦争の謎や占領時代の謎が解明される大きな一歩になりました。

GHQの「検閲」対象となったのはどんな本ですか?

 作家、太宰治は終戦から2カ月後、東北の地方新聞である「河北新報」に小説『パンドラの匣(はこ)』を連載しました。連載終了後、1946年6月に河北新報社から単行本が出ました。
翌年、双英書房から、さらに翌年、育生社から『パンドラの匣』が出版されましたが、この双英書房版と育生社版にGHQが文章改変を指示したことが最近、東京新聞の調査で分かりました。

『パンドラの匣』は結核療養所を舞台にしていて、戦後の混乱期に生きる人々の考えや行動を描いたものです。GHQはかなり多くの文章を削除したり文章を変えたりしていますが、そのほとんどが天皇に関する記述です。
例えば、小説の中で「越後獅子」というあだ名の詩人がこう言う場面があります。「日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を攻撃したって、それはもう自由思想ではない。便乗思想である。真の自由思想家なら、いまこそ何を置いても叫ばなければならぬ事がある。・・・・天皇陛下萬歳! この叫びだ。昨日までは古かった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ・・・・」。この部分は全く反対の意味にとれる文章に変えられています。

 このような個所にGHQが神経を尖らしていたということは、日本人の天皇に対する崇敬の念を消そうと躍起になっていたのだと思います。
しかし、多くの学者や作家が戦争中とはガラッと態度を変え、急に「天皇の戦争責任」などと言い始めていた時期に、太宰治がGHQに睨まれることを覚悟の上でこのような文章を残していたことは驚くべきことです。太宰治といえばニヒリスト、というイメージがありますが、そのようなイメージも戦後、作られたものだということが分かります。


GHQの「焚書」対象となったのはどんな本ですか?

「焚書」は昭和3年(1928年)から昭和20年9月2日までに刊行されたものを対象に行われました。昭和3年、というのは極東国際軍事裁判(東京裁判)で連合国側が「日本の侵略開始時期」と決めつけた年です。

 没収本でもっとも多かったのは書名に東亜、支那、満州などという言葉がついているもので全体の約26%です。次に多いのが書名に国体、教育、神道といった言葉がついているもので24%、戦争、聖戦、侵略などという言葉がついているものが20%、経済、資源、産業に関する書名のものが15%、南洋、南進、スパイなどという言葉がついているものが8%、でした。

 昭和14年(1939年)から16年にかけて世界創造社から『戦争文化叢書』というシリーズが35冊出ていて、すべてが没収されています。このシリーズのタイトルを見ると、ほとんどがイギリスに関係のある本で、アメリカを意識した本は1冊しかありません。それだけ、当時の日本人にとってイギリスの存在は脅威だったということが分かります。
例えば『東亜とイギリス』『日英支那戦争』『印度(インド)民族論』『印度侵略序幕』などというタイトルが並んでいます。当時イギリスは白人国家の中でアジアにもっとも多くの植民地を持ち、その支配は残忍で、過酷を極めていました。その象徴がインドでした。

 大東亜戦争の緒戦で日本がまずイギリス海軍の要塞だったシンガポールを陥落させたのは世界に衝撃を与える快挙でした。スペインの無敵艦隊を破って以来、無敵だったイギリス海軍の2隻の軍艦を日本が沈没させたことは大英帝国を衰退に導きました。
戦後、イギリスは香港以外のアジアのすべての植民地を失い、急速に衰えました。そのような大東亜戦争の持つ意味、戦争の大義、戦争に至る経緯を日本人に忘れさせるためにGHQは本を没収したのです。

 ちなみにGHQに狙われ、出版物をもっとも多く没収された出版社のベストスリーは?朝日新聞社(140点)?大日本雄弁会講談社(83点)?毎日新聞社(81点)です。この3社は戦後、日本が侵略戦争をしたと言い続けた自虐史観の代表的マスコミです。
自社の出版物を大量に没収されたことと自虐史観になったことは、おそらく深層心理的に深い関係があるのだろうと思います。

GHQはどのような人物を歴史から消そうとしたのですか?

 日本の偉人の名前がタイトルについている、というだけの理由で「焚書」にされた本も全体の4%ありました。ではGHQが日本人の記憶から消し去ろうとした人物はどのような人たちだったのでしょうか?


 昭和より前の時代でもっとも多かったのは日露戦争の英雄で明治を代表する軍人、乃木希典です。次が楠木正成、東郷平八郎、軍神と呼ばれて歌にもなった広瀬中佐、と続きます。これらの人に共通するのは軍人・武将で天皇に忠義を尽くした、ということでしょう。
昭和の人物では海軍の山本五十六に関する本がもっとも多く没収されています。政治家でも近衛文麿、松岡洋右、犬養毅に関する本が没収されています。東條英機はなぜかゼロです。


 軍人ばかりではなく吉田松陰、日蓮、藤田東湖、本居宣長、二宮尊徳といった学者、思想家を研究した本も没収されています。これらの人々は日本の歴史を語る上で欠かせない偉人ばかりです。ある意味でもっとも日本人的な日本人、とも言えるでしょう。これらの思想書を奪われたことで、戦後の日本人は日本的な生き方とは何か、が分からなくなってしまったのではないでしょうか?
 戦後、日本の学校教育では人間はみな平等だ、という理由で授業で偉人を取り上げなくなりましたが、その始まりはこの「焚書」にあったのかも知れません。


「国体」とは何ですか?

 今の日本人には「国体」と言われても、何のことだかよく分かりません。国民体育大会の略か、と思う人も多いと思います。しかしGHQに没収された「国体」関係本は突出して多く、142点ありました。特に昭和10年(1935年)頃、国体論が盛んに論議されていたので多くの本が出版されていたのです。

「国体」とは一言でいえば国柄、国のかたち、日本らしさということだと思いますが、日本の地理や風土、民族性、文化などを含む、非常に幅広い概念です。「国体」という概念の基本にあるのは皇室です。
神話の世界からつながる万世一系の血筋を持つ天皇と、その臣下である国民が「君民一体」となって作りあげた世界最古の国が日本である、というのが当時の日本人が常識として持っていた「国体」のイメージでした。

「焚書」対象となった本のタイトルを見てみると『国体学入門』『国体と仏教』『国体の信念』『国体の本義』『国体の真髄』『国体に醒めよ』『国体読本』『国体思想論』『神国日本と国体主義』・・・「国体」を論じた本がこんなにたくさんあったのか、ということに驚きます。
日本という国はどういう国なのか、日本の国柄とは何なのか、国体の本質は何なのか、ということは当時の日本人にとって大変な関心事で、学者や知識人はこの問題で大いに議論していたのだということが分かります。


「八紘一宇(はっこういちう)」とは何ですか?

「八紘一宇」は大東亜戦争のスローガンになった言葉で「八紘」は世界、「一宇」は一つの家という意味です。「大東亜共栄圏を実現して、日本を中心にして世界を一つの家のようにしよう」という意味です。
『日本書紀』の「神武天皇紀」に出てくる「掩八紘而為宇(はっこうをおおいていえとなす)」という文章に由来しています。

「八紘一宇」という言葉を世に広めたのは田中智学です。
彼は江戸時代末期に生まれ、もともとは日蓮宗の宗教家でした。「国柱会(こくちゅうかい)」という団体を作って日蓮主義の運動をしたり、「日本国体学会」という組織を作って国家主義を唱えたりしました。
「国柱会」の信者には「陸軍きっての秀才」といわれた石原莞爾(かんじ)や詩人の宮沢賢治がいます。

「愛国行進曲」という歌の歌詞に「往け(ゆけ)八紘を宇(いえ)となし 四海の人を導きて 正しき平和うち建てん 理想は花と咲き薫る」という一節があります。
神武天皇の説かれた「世界を一つの家のようにしよう」という理想を実現するのが日本に課せられた使命なのだ、と純粋に信じてわが国は大東亜戦争を戦ったわけですが、GHQにそのような思想は理解できません。
アメリカ人から見れば単なる狂信的な危険思想、にしか見えなかったでしょう。


「検閲」や「焚書」はどの程度効果があったのでしょうか?

 終戦直後、ほとんどの日本人は負けたことに対する驚きや悲嘆は感じても、戦争をしたこと自体を反省するという気持ちはまったく持っていなかったようです。正義の戦いをして力尽きて負けただけだ、というのがほとんどの国民の認識だったはずです。

 しかし「検閲」や「焚書」の効果が次第に現われてきたのか、没収が実際に行われ始めた昭和23年(1948年)7月頃には日本の雰囲気は早くも「アメリカ万歳」に変わってしまっていました。チューインガムとホットドッグとコカコーラが流行し、映画「ターザン」や「荒野の決闘」を見に大勢の人が映画館に押しかけました。サンフランシスコ・シールズという大リーグの3Aのチームが来て、羽田空港には女優が花束を持って出迎えました。

「鬼畜米英」をスローガンに国民が一丸となり、歯を食いしばって戦ったのに終戦からたった3年で、少なくとも表面的には日本人の態度はコロッと変わってしまったのです。これは占領時代の最大の謎です。この現象にはさまざまな要因があり、さまざまな分析ができるでしょう。

 それにしても、なぜ日本政府は「焚書」命令を拒絶できなかったのでしょうか? 昨日まで当たり前に存在していた歴史書や思想書が「宣伝用刊行物」と呼ばれ、焼きなさい、と言われたのです。
思想を奪われるということは心を奪われることだと思います。先人が積み重ねてきた思想を敵国からあれは戦争遂行のための単なる宣伝だった、間違った教えだったと言え、という要求に日本政府は簡単に屈してしまいました。
同じ敗戦国のドイツに対してアメリカは憲法改正の要求をしましたが、拒絶されています。負けたからといって自国の歴史を否定することは自分を否定することと同じです。
今の日本が軸を失い、政治家が正当な主張もできない状態でいるのを見ると「焚書」の効果は大きかったと言わざるを得ません。

参考文献:西尾幹二『GHQ焚書図書開封』(徳間書店)



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